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音楽とウェルビーイング リズムが創る共感とセルフケアの科学

  • 執筆者の写真: 西村太志
    西村太志
  • 7月25日
  • 読了時間: 8分

なぜ私たちは音楽に心惹かれるのか


通勤電車でイヤホンから流れる音楽に励まされた経験や、大切な人との思い出の曲を聴いて胸が熱くなった経験は、誰しもあるのではないでしょうか。音楽は、私たちの日常に深く溶け込み、言葉では言い表せない感情を揺さぶり、時には人生の岐路で背中を押してくれる不思議な力を持っています。

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古代の儀式から現代のデジタル空間に至るまで、人類は常に音楽と共にありました。それは、音楽が単なる娯楽や芸術の域を超え、私たちの心身の健康、すなわちウェルビーイングに根源的なレベルで作用するからに他なりません。文化や言語の壁を軽々と乗り越え、個人の内面にも、人々の間の関係性にも働きかける音楽。その普遍的な力の源泉はどこにあるのでしょうか。


本稿では、近年の脳科学や心理学の知見を紐解きながら、音楽が私たちのウェルビーイングを高めるメカニズムを科学的に探求します。そして、その知見を日常生活で活かすための具体的なセルフケア術についても考えていきたいと思います。



音楽が脳と身体にもたらす科学的効果


リズムと脳波の同調


クラシックコンサートの荘厳なホールでも、熱気あふれるライブハウスでも、私たちは音楽を聴きながら自然と足でリズムを取ったり、体を揺らしたりします。この現象は、物理学で「引き込み」と呼ばれる、異なる周期を持つものが互いに影響し合い、周期が同期する現象と深く関連しています。音楽の持つリズミカルな刺激は、私たちの脳波に直接働きかけ、特定の周波数へと同調させる力があるのです。


例えば、瞑想やリラックス状態の脳に見られるアルファ波やシータ波に近い、ゆったりとしたテンポ(BPM60〜80程度)の曲を聴くと、脳波もまたそのリズムに引き込まれ、心身が鎮静化に向かいます。実際に、規則的なリズム聴覚刺激(RAS)は、パーキンソン病患者の歩行機能を改善させるリハビリテーションにも応用されており、リズムが運動野を活性化させる強力なツールであることが示されています【資料A】。

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逆に、アップテンポな曲が私たちの気分を高揚させ、活動的にするのは、脳波がその速いリズムに同調し、覚醒レベルを引き上げるためです。このように音楽のテンポを意識的に選ぶことは、自律神経のバランスを整え、自身の心の状態を能動的にコントロールする手段となり得るのです。


ドーパミン放出と快感のメカニズム

お気に入りの曲のサビに差し掛かる瞬間の、鳥肌が立つような高揚感を科学的に説明することは可能でしょうか。実はその時、私たちの脳内では「快感ホルモン」とも呼ばれる神経伝達物質ドーパミンが活発に放出されています。カナダのマギル大学の研究チームが行った画期的な実験では、被験者が最も感動すると答えた音楽を聴いている際の脳活動をPET(陽電子放出断層撮影)で測定しました【資料B】。 その結果、鳥肌が立つほどの感動のピークに達する直前の「期待感」が高まる部分で、そして感動のピークを迎えた瞬間の両方で、脳の報酬系と呼ばれる領域(特に線条体)からドーパミンが放出されることが確認されたのです。


これは、私たちが美味しい食事をしたり、金銭的な報酬を得たりする時に活性化するのと同じ神経回路です。音楽は、生命維持に直接関わらない抽象的な刺激であるにもかかわらず、人間にとって根源的な「報酬」として機能することを示唆しています。 この発見は、なぜ私たちが何度も同じ曲を聴きたくなるのか、なぜ新しい音楽を探し求めるのかという問いに、脳科学的な答えを与えてくれました。音楽は、私たちの脳に直接的な快感をもたらすことで、日々のストレスを和らげ、生きる喜びやモチベーションを育む上で重要な役割を担っているのです。


「つながり」を生む音楽の社会的機能

ライブコンサートにおける一体感の正体

音楽の力は、個人の内面だけに留まりません。むしろ、その真価は人々を「つなぐ」力にあると言えるかもしれません。ロックコンサートで数万人の観客が一体となって歌い、体を揺らす光景は、音楽の持つ社会的な機能を象徴しています。この時、会場には単なる音響的な共鳴以上の、心理的な「共鳴」が生まれています。近年の研究では、集団で一緒に歌ったり踊ったりすると、参加者の心拍や呼吸、さらには脳活動までもが同期する現象が報告されています【資料C】。

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この身体的な共鳴は、他者への共感や信頼感、集団への帰属意識を高める強力な触媒となります。言葉を交わさずとも、同じリズムを共有し、同じメロディを口ずさむことで、私たちは「一人ではない」という感覚、すなわち社会的なつながりを強く実感するのです。このつながりの感覚は、人間のウェルビーイングにおける最も重要な要素の一つです。孤独が心身の健康に深刻な悪影響を及ぼすことが知られている現代社会において、音楽は人々を結びつけ、孤立を防ぐための有効な処方箋となり得るでしょう。


音楽を通じた非言語コミュニケーション

音楽は、言葉が通じない相手とも感情を分かち合うことを可能にする、普遍的なコミュニケーションツールです。歌詞のないクラシック音楽が国境を越えて人々に感動を与えるのも、母親が奏でる子守唄が赤ん坊を安心させるのも、音楽が論理や理性を飛び越え、私たちの情動システムに直接アクセスするからです。音楽療法の実践においても、言葉での表現が困難な自閉症スペクトラムの子どもや認知症の高齢者に対して、音楽が有効なコミュニケーションの架け橋となることが知られています【資料D】。


感情のニュアンスを豊かに表現するメロディやハーモニー、心拍のリズムと呼応するテンポ。これらの要素が組み合わさることで、音楽は喜び、悲しみ、怒りといった複雑な感情を、言語以上に雄弁に伝達します。他者と感情を共有し、共感し合う経験は、私たちの社会的スキルを育み、人間関係をより豊かなものにしてくれます。音楽という共通言語を持つことで、私たちは文化や背景の異なる人々とも心を通わせ、より包摂的な社会を築いていくことができるはずです。


日常生活で活かすセルフケアとしての音楽

科学的根拠に基づくプレイリストの活用

これまでに見てきた音楽の科学的効果を、私たちの日常生活におけるセルフケアに活かすにはどうすればよいのでしょうか。最も手軽で効果的な方法は、目的に合わせた自分だけのプレイリストを作成することです。例えば、重要なプレゼンテーションの前に感じるような急性のストレスに対しては、リラックス効果のある音楽が有効であることが研究で示されています。ある研究では、被験者を心理的なストレステストにかけた後、リラックス効果のある音楽を聴かせたところ、ストレスホルモンである唾液中のコルチゾール濃度が、無音状態で休息したグループよりも有意に速く低下することが確認されました【資料E】。

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具体的には、朝の目覚めには気分を高揚させるアップテンポな曲を、集中力を要するデスクワーク中には歌詞がなく展開の少ないアンビエントミュージックやクラシック音楽を、そして就寝前には心拍数に近い、ゆったりとしたテンポのヒーリングミュージックを選ぶなど、生活のシーンに合わせてBGMを使い分けることが推奨されます。自身の心と体の声に耳を澄まし、その時々の状態に合った音楽を処方する感覚でプレイリストを編集してみることは、手軽に始められるウェルビーイング向上の実践と言えるでしょう。


「聴く」から「奏でる」へのステップアップ

音楽の恩恵は、受動的に「聴く」だけにとどまりません。一歩進んで、自らが楽器を演奏したり、歌を歌ったりといった能動的な音楽活動に取り組むことは、ウェルビーイングをさらに高いレベルへと引き上げてくれます。楽器の演奏は、指先の細やかな動き、楽譜の読解、リズムの維持、音の記憶など、脳の様々な領域を同時に活性化させる複雑な作業です。そのため、子どもの認知能力の発達を促すだけでなく、高齢者の認知機能の維持や向上にも効果があると考えられています。

さらに重要なのは、能動的な音楽活動がもたらす自己表現の喜びと達成感です。練習を重ねて一つの曲を弾けるようになった時の喜びや、仲間とハーモニーを創り上げた時の一体感は、何物にも代えがたい自己肯定感の源泉となります。それは、単に音楽のスキルが上達するということ以上に、困難を乗り越え、目標を達成できるという自己効力感を育むプロセスなのです。

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地域のコーラスグループに参加したり、押し入れに眠っていたギターを手に取ってみたりすること。それは、新たな人とのつながりを生み、日々の生活に彩りと張りをもたらす、豊かな自己投資となるはずです。音楽は、私たちの人生をより深く、より豊かに奏でるための、最も身近で強力なパートナーなのです。


心と体のバランスを整えてウェルビーイングな毎日を

参考文献


【資料A】Thaut, M. H., & Abiru, M. (2010). Rhythmic auditory stimulation in rehabilitation of movement disorders. Expert Review of Neurotherapeutics, 10(2), 223-231.

【資料B】Salimpoor, V. N., Benovoy, M., Larcher, K., Dagher, A., & Zatorre, R. J. (2011). Anatomically distinct dopamine release during anticipation and experience of peak emotion to music. Nature Neuroscience, 14(2), 257-262.

【資料C】Tarr, B., Launay, J., & Dunbar, R. I. (2014). Music and social bonding: A review of the evidence. Frontiers in Psychology, 5, 1218.

【資料D】日本音楽療法学会. 「音楽療法士とは」

【資料E】Khalfa, S., Bella, S. D., Roy, M., Peretz, I., & Lupien, S. J. (2003). Effects of relaxing music on salivary cortisol level after psychological stress. Annals of the New York Academy of Sciences, 999(1), 374-376.

西村太志(にしむら・たいし)


兵庫県出身、東京都国立市在住。一橋大学大学院で社会学を研究中。

ウェルビーイング、つながりの再構築、主観と客観のあいだを探る思想に関心がある。

趣味は読書、映画、音楽(高校まで吹奏楽部)。

 
 
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