クリエイティブワークとウェルビーイング 働き方の未来
- 西村太志

- 8月23日
- 読了時間: 7分
クリエイティブの源泉が枯渇する時代
人工知能(AI)が私たちの日常に急速に浸透し、働き方の未来が再定義されつつある現代。かつて人間にしかできないとされた分析や判断業務さえもが自動化される中で、私たちビジネスパーソンに、そして人間そのものに残された最後の聖域はどこにあるのでしょうか。
多くの人がその答えを「創造性(クリエイティビティ)」に見出しています。

前例のない課題に対して独自の解決策を生み出し、新たな価値を創造する能力。これこそが、これからの時代を生き抜くための最も重要なスキルであることに、異論を唱える人は少ないでしょう。
しかし、その一方で、この創造性の担い手である私たち自身の心は、かつてないほどのプレッシャーに晒されています。テクノロジーの進化はコミュニケーションを加速させ、仕事と私生活の境界を曖昧にしました。常に「つながっている」状態は、私たちの集中力を断片化し、精神的なエネルギーを消耗させます。
厚生労働省が公表した調査によれば、メンタルヘルスの不調を理由に1ヶ月以上休業、あるいは退職した労働者がいた事業所の割合は13.3%に達し、増加傾向にあります【資料A】。
私たちは、生産性や効率性を追い求めるあまり、人間が創造的に機能するために不可欠な要素、すなわち精神的な回復の時間と心の余白を見失っているのかもしれません。創造性とは、決して無尽蔵に湧き出るものではありません。その源泉である私たちのウェルビーイングが損なわれた時、アイデアの泉もまた、静かに枯渇していくのです。
なぜウェルビーイングが「ひらめき」を生むのか
ポジティブ感情が拓く「思考のハイウェイ」
「ひらめき」や「アイデア」は、私たちの心理状態と深く結びついています。心理学者のバーバラ・フレドリクソンが提唱した「拡張-形成理論」によれば、喜びや興味、満足感といったポジティブな感情は、私たちの注意と認知の範囲を文字通り「拡張」させる効果があります【資料B】。
心がポジティブな状態にあるとき、私たちは物事をより広い視野で捉え、普段なら結びつけないような多様な情報やアイデアを柔軟に連結させることができるのです。これは、新しい発想や斬新な解決策が生まれるための、いわば思考のハイウェイが開通するような状態と言えるでしょう。

逆に、不安や恐怖、焦りといったネガティブな感情は、私たちの注意を特定の問題に集中させ、視野を狭める働きがあります。これは、短期的な危機回避には役立つかもしれませんが、この状態が慢性化すると、思考は硬直化し、既存の枠組みから抜け出すことは困難になります。常にプレッシャーに晒され、精神的に満たされない環境が、いかに創造性の芽を摘んでしまうか、この理論は明確に示唆しているのです。
「何もしない時間」と脳の創造的対話
シャワーを浴びている時や、ただ窓の外を眺めている時に、ふと良いアイデアが浮かんだ経験はないでしょうか。一見すると「何もしていない」この時間こそ、私たちの脳は最も創造的な活動を行っています。これが、近年の脳科学でその重要性が解き明かされつつある「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」の働きです【資料C】。
DMNは、私たちが特定のタスクに集中していない、いわばアイドリング状態の時に活発化し、過去の記憶や知識を自由に結びつけ、未来をシミュレーションするなど、自己参照的な思考を司っています。そして、このDMNの活動こそが、創造性の源泉であることが分かってきました。

創造的なプロセスとは、DMNがアイデアの「種」を自由に生み出し、それを思考の舵取り役である「実行機能ネットワーク」が評価・洗練させていく、二つのネットワーク間の活発な対話によって成り立っています【資料C】。
常にタスクや情報に追われ、脳を「集中モード」にし続けている状態では、この創造性を育むための重要な脳内対話が行われる余地がありません。意識的に「何もしない時間」を確保することは、もはや単なる休息ではなく、新たな価値を生み出すための極めて戦略的な行為と言えるのです。
内なる創造性を育むための処方箋
では、多忙な日常の中で、どうすればこの貴重な「心の余白」を取り戻し、創造性を育むことができるのでしょうか。ここでは、科学的根拠に基づいた具体的な処方箋をいくつかご紹介します。
戦略的休息としての「心理的デタッチメント」
質の高い休息とは、単に仕事から物理的に離れることだけを意味しません。重要なのは、仕事のことを考えず、心理的にも完全に距離を置くこと、すなわち「心理的デタッチメント」です。研究によれば、このデタッチメントがうまくできている人ほど、仕事へのエンゲージメントが高く、燃え尽き症候群に陥りにくいことが示されています【資料D】。

週末に趣味に没頭する、友人と仕事とは全く関係のない話で盛り上がる、スポーツで汗を流す。どのような活動でも構いません。重要なのは、その時間を通じて仕事のストレスから完全に解放され、精神的なエネルギーを再充電することです。これは、次の創造的な仕事に向けて心と脳をリフレッシュさせるための、不可欠なメンテナンスなのです。
身体を動かし、アイデアに翼を与える
デスクワーク中心の現代的な働き方は、私たちの思考を身体から切り離しがちです。しかし、心と体は不可分であり、身体を動かすことは脳の働きを活性化させます。特に、ウォーキングのような軽度な有酸素運動は、創造的思考を著しく高める効果があることが、スタンフォード大学の研究で示されています【資料E】。
この研究では、座っている時よりも歩いている時の方が、被験者の多様なアイデアを生み出す能力が平均で60%も向上したという結果が出ています。行き詰まった時には、一度デスクを離れてオフィスの中を歩き回ってみる、あるいは少し外の空気を吸いながら散歩をしてみる。そうした身体的な活動が、脳に新たな刺激を与え、思考の閉塞感を打ち破るきっかけを与えてくれるかもしれません。
未来の働き方は「人間性の回復」から始まる
AIとの協働が当たり前になる未来において、私たちの価値は、効率や生産性の追求だけでは測れなくなります。むしろ、人間ならではの感性や直感、そして創造性こそが、その価値の源泉となるでしょう。そのためには、働き方に対する価値観を根本的に見直す必要があります。単に長時間働き、アウトプットを最大化することだけを目指す働き方では、いずれ創造性の泉は枯渇してしまいます。
未来の働き方の鍵は、効率化の追求の先にある「人間性の回復」にあります。ポジティブな感情を育み、意図的に「何もしない時間」を確保し、仕事から心理的に距離を置き、身体を動かす。これらは遠回りなようで、実は創造性を最も高めるための近道なのです。

個人がウェルビーイングの重要性を認識し、日々の生活の中で実践すること。そして、組織がそれを許容し、むしろ推奨するような文化を醸成していくこと。この両輪が揃った時、私たちは真に持続可能な形で創造性を発揮し、変化の激しい時代を乗り越えていくことができるのではないでしょうか。
心と体のバランスを整えてウェルビーイングな毎日を
参考文献
【資料B】Fredrickson, B. L. (2001). The role of positive emotions in positive psychology: The broaden-and-build theory of positive emotions. American Psychologist, 56(3), 218–226.
【資料C】Beaty, R. E., et al. (2016). Creative Cognition and Brain Network Dynamics. Trends in Cognitive Sciences, 20(2), 87-95.
【資料D】Sonnentag, S., & Fritz, C. (2007). The Recovery Experience Questionnaire: Development and validation of a measure for assessing recuperation and unwinding from work. Journal of Occupational Health Psychology, 12(3), 204–221.
【資料E】Oppezzo, M., & Schwartz, D. L. (2014). Give your ideas some legs: The positive effect of walking on creative thinking. Journal of Experimental Psychology: Learning, Memory, and Cognition, 40(4), 1142–1152.
西村太志(にしむら・たいし)
兵庫県出身、東京都国立市在住。一橋大学大学院で社会学を研究中。 ウェルビーイング、つながりの再構築、主観と客観のあいだを探る思想に関心がある。 趣味は読書、映画、音楽(高校時代までは吹奏楽部)。



