時間感覚とウェルビーイング 余白が心を潤す
- 西村太志
- 6月20日
- 読了時間: 7分
現代人を蝕む「時間貧困」という病
「忙しい」が口癖になり、常に何かに追われているような感覚。テクノロジーの進化で仕事や生活は効率化されたはずなのに、なぜ私たちの心はかつてなく渇き、休まらないのでしょうか。この感覚は、単なる個人の気のせいでも、努力不足の表れでもありません。

「時間貧困」と呼ばれる、現代社会に蔓延する深刻な病です。横浜市立大学の研究グループが行った調査では、時間に追われる主観的な感覚、すなわち「時間貧困」の状態にある人ほど、幸福感が低く、心理的ストレスや社会的孤立感が強いという明確な相関が示されました【資料A】。
重要なのは、これがカレンダー上の客観的な時間の不足を指すのではないという点です。むしろ、常に「やるべきこと」に意識が占有され、心が自由に呼吸するための「余白」が失われている、きわめて質的な問題なのです。
この「心の余白」の喪失は、私たちのウェルビーイング全体を静かに、しかし確実に蝕んでいきます。厚生労働省が公表した令和4年の調査では、メンタルヘルスの不調を理由に1ヶ月以上休業、あるいは退職した労働者がいた事業所の割合は13.3%に達し、過去の調査から増加傾向にあります【資料B】。
私たちは、生産性や効率性を追い求めるあまり、人間が健全に機能するために不可欠な要素、すなわち精神的な回復の時間を見失っているのかもしれません。その失われた鍵を取り戻すヒントは、一見すると「無駄」や「非生産的」と切り捨てられがちな時間、つまり「意図的に何もしない時間」の価値を、科学的な根拠をもって再発見することにあるのです。
何もしていない時間こそ脳は最も創造的になる
ぼーっとしている時や、考え事をしている時、私たちの脳は決して活動を停止しているわけではありません。むしろ、非常にエネルギーを消費し、きわめて重要な活動を行っています。

これが、近年の脳科学でその重要性が解き明かされつつある「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」と呼ばれる脳内ネットワークの働きです。DMNは、私たちが特定の外部タスクに集中していない、いわばアイドリング状態の時に活発化します。そして、過去の記憶を整理・統合したり、未来の計画を練ったり、他者の心を推測したり、そして自分自身について深く内省したりといった、高度で自己参照的な思考を司っているのです。
そして驚くべきことに、このDMNの活動こそが、私たちの創造性の源泉であることが分かってきました。2014年に発表された画期的な研究では、創造性が高いと評価された人々は、安静時の脳において、このDMNと、思考の舵を取り、評価を下す「実行機能ネットワーク」との機能的な連携がより強いことが示されました【資料C】。
これは、創造的なプロセスが単一の脳活動ではないことを意味します。DMNが過去の経験や知識を自由に結びつけ、斬新なアイデアの「種」を次々と生み出す。そして、実行機能ネットワークがその中から有望なものを選び出し、論理的に検証し、具体的な形へと磨き上げていく。
この二つのネットワーク間の活発で柔軟な対話こそが、「ひらめき」やイノベーションの本質なのです。常にタスクや情報に追われ、脳を「集中モード」にし続けている状態では、この創造性を育むための重要な脳内対話が行われる余地がありません。意識的に「何もしない時間」を確保し、DMNが自由に活動できる環境を整えることは、もはや単なる休息ではなく、新たな価値を生み出すための極めて戦略的な行為と言えるのです。
「退屈」と「心のさまよい」がもたらす意外な効用
「退屈」は、私たちが最も避けたい感情の一つかもしれません。しかし、創造性の観点からは、この退屈こそが重要な触媒となり得ることが示唆されています。

英国の研究チームが行った実験では、参加者に意図的に退屈な作業(電話帳の番号をひたすら書き写すなど)をさせた後、創造性を測る課題に取り組んでもらいました。その結果、退屈な作業を経験したグループの方が、そうでないグループに比べて、より多くの、そしてより独創的なアイデアを生み出すことができたのです【資料D】。
この現象の背景には、退屈な状況下で私たちの注意が外部の刺激から解放され、内部へと向かうことで「マインドワンダリング(心の彷徨)」が促されるメカニズムがあります。 マインドワンダリングとは、目の前の課題とは直接関係のない事柄に思考が自由に巡る現象で、まさにDMNが活発に働いている状態そのものです。もちろん、高い集中力が求められる作業中にマインドワンダリングが起きれば、それは単なる注意散漫であり、パフォーマンスの低下につながります。 しかし、複雑な問題に行き詰まった時など、一度その課題から意識的に離れて心を彷徨わせる「あたため期(インキュベーション・ピリオド)」を設けることで、思考の固定観念が外れ、予期せぬ解決策や視点が見つかることは、多くの人が経験的に知っているでしょう。 イタリアには「il dolce far niente(何もしないことの甘美さ)」という美しい言葉がありますが、これは単なる怠惰を称賛しているのではありません。生産性や効率という価値観から一時的に自らを解放し、思考を自由に遊ばせることの豊かさ、その内側から湧き上がる創造的なエネルギーの価値を知る、まさにウェルビーイングの本質に触れる考え方なのです。
意識的に「余白」を生み出すための処方箋
では、多忙な日常の中で、どうすればこの貴重な「心の余白」を取り戻せるのでしょうか。現代人にとって最も現実的かつ効果的な処方箋の一つが、「デジタルデトックス」の実践です。

私たちは、スマートフォンの通知やSNSの無限に続くフィードをチェックすることで、通勤中、昼休み、就寝前といった、かつては「余白」であったはずのわずかな空き時間さえも、情報で埋め尽くしてしまいがちです。これが、DMNの健全な活動を妨げ、知らず知らずのうちに心の疲弊を招く大きな原因となっています。
ある研究では、若年成人を対象に2週間のソーシャルメディア・デジタルデトックス(1日の利用を30分に制限)を実施しました。その結果、スマートフォンやSNSへの依存傾向が改善しただけでなく、睡眠の質、生活満足度、そして主観的なウェルネスが有意に向上し、ストレスレベルが減少するという顕著な効果が確認されました【資料E】。 この研究で特に興味深いのは、多くの参加者がこの30分という制限を「厳しすぎる」でも「緩すぎる」でもなく、「ちょうどいい(Goldilocks effect)」と感じていた点です。 これは、完全なデジタル遮断という非現実的な目標ではなく、意識的に距離を置き、テクノロジーとの健全な関係を再構築することの重要性を示唆しています。まずは、寝る前の1時間だけはスマートフォンに触らない、散歩中は音楽も聴かずに風の音や街の喧騒に耳を澄ませる、といった小さな実践から始めてみてはいかがでしょうか。 そうして意図的に生み出された「余白」が、あなたの乾いた心を潤し、日々のパフォーマンス、そして人生全体の豊かさを取り戻す、確かな第一歩となるはずです。
心と体のバランスを整えてウェルビーイングな毎日を
参考文献
【資料A】 横浜市立大学. (2025, April 14). 働く世代が感じる「時間が足りない」感覚が幸福感、社会的孤立感、仕事の満足度に関連
【資料B】 厚生労働省. (2023, August 4). 令和4年「労働安全衛生調査(実態調査)」の概況.
【資料C】 Beaty, R. E., Benedek, M., Silvia, P. J., & Schacter, D. L. (2014) Creativity and the default network: A functional connectivity analysis of the creative brain at rest. Proceedings of the National Academy of Sciences, 111(27), 10042-10047.
【資料D】 Mann, S., & Cadman, R. (2014). Does being bored make us more creative?. Creativity Research Journal, 26(2), 165-173.
【資料E】 Robertson, K., et al. (2023). Taking a Break: The Effects of Partaking in a Two-Week Social Media Digital Detox on Problematic Smartphone and Social Media Use, and Other Health-Related Outcomes among Young Adults. Behavioral Sciences, 13(12), 1004.
西村太志(にしむら・たいし)
兵庫県出身、東京都国立市在住。一橋大学大学院で社会学を研究中。
ウェルビーイング、つながりの再構築、主観と客観のあいだを探る思想に関心がある。
趣味は読書、映画、音楽(高校時代まで吹奏楽部)。