喪失とグリーフケア 死別の悲しみを抱えながらウェルビーイングを取り戻すプロセス
- 西村太志
- 6月30日
- 読了時間: 6分
人生における避けられない問い
私たちの人生は、出会いと別れの連続です。その中でも、大切な人との死別という経験は、おそらく最も深く、そして根源的に私たちの存在を揺さぶる出来事でしょう。キャリアの成功、良好な人間関係、経済的な安定。私たちが日々築き上げている「ウェルビーイング」の土台は、この「喪失」という抗いようのない現実の前に、時としてその脆さを露呈します。

特に、多忙な日常を生きるビジネスパーソンにとって、予期せぬ死別は、仕事のパフォーマンスだけでなく、生きる意味そのものを見失わせるほどのインパクトを持ち得ます。本稿では、この根源的なテーマである「喪失」と、そこからウェルビーイングを再構築していくための「グリーフケア」のプロセスについて、最新の知見を交えながら深く掘り下げていきたいと思います。
グリーフのプロセスを正しく理解する
大切な人を失った後に生じる、深い悲しみや寂しさ、怒り、罪悪感といった様々な感情の反応や心身の変化を、専門的には「グリーフ(grief)」あるいは「悲嘆」と呼びます。これは病気や異常な状態ではなく、喪失に対する極めて自然で正常な反応です。
このグリーフのプロセスを説明するモデルとして、精神科医エリザベス・キューブラー=ロスが提唱した「否認・怒り・取引・抑うつ・受容」という5段階モデルはあまりにも有名です。

しかし、このモデルはあくまで終末期にある患者の心理的プロセスを記述したものであり、死別を経験した遺族のグリーフにそのまま当てはまるわけではありません。現代のグリーフケア研究では、悲嘆のプロセスは直線的な段階を踏むのではなく、もっと複雑で多様な様相を呈することが明らかになっています【資料A】。
例えば、心理学者のウィリアム・ウォーデンは、グリーフを乗り越えるべき「段階」ではなく、当事者が取り組むべき「課題」として捉え直しました。彼が提唱する「悲嘆の4つの課題」とは、第一に「喪失の事実を現実として受け入れること」、第二に「悲嘆の苦痛を感じ、きちんと表現すること」、第三に「故人のいない環境に適応すること」、そして第四に「故人を心の中に位置づけ、新たな人生を歩みだすこと」です【資料B】。 このモデルの優れた点は、グリーフを単なる時間の経過に任せるのではなく、当事者の能動的な営みとして捉えている点にあります。悲しみの波は繰り返し訪れます。ある日は穏やかに過ごせても、次の日には激しい感情に襲われることもあります。重要なのは、決まったレールの上を進むことではなく、自分自身のペースで、揺れ動きながらもこれらの課題と向き合っていくことなのです。
「早く立ち直るべき」という社会の圧力
グリーフのプロセスにおいて、当事者を最も苦しめるものの一つが、「早く立ち直らなければならない」という無言の社会的圧力です。周囲からの善意による「元気を出して」「いつまでも悲しんでいては、故人も浮かばれない」といった励ましの言葉が、かえって当事者を追い詰めてしまうケースは少なくありません。
これらの言葉の裏には、悲しみは早く克服すべきネガティブなもの、という社会通念が潜んでいます。しかし、悲嘆感情を無理に抑圧することは、心身の健康に深刻な悪影響を及ぼす可能性があります。十分に悲しむ時間と機会を奪われたグリーフは、複雑性悲嘆(Complicated Grief)と呼ばれる、より深刻で長期的な精神的不調につながるリスクを高めることが指摘されています【資料C】。

職場においても、同様の課題が存在します。忌引休暇が明ければ、何事もなかったかのように普段通りのパフォーマンスを求められます。悲しみを表に出すことは「プロフェッショナルではない」と見なされる。こうした環境は、当事者に自身の感情を押し殺すことを強要し、深い孤独感と疎外感をもたらします。 真のウェルビーイングとは、ネガティブな感情を排除することではなく、そうした感情も含めて自分自身の全体性を認め、受け入れることから始まります。社会や組織は、人が悲しむことを許容し、そのための時間と空間を保障する「悲しむ権利」を認め、支える姿勢を持つことが不可欠です。
新たな関係性の構築へ 「継続する絆」と「心的外傷後成長」
では、グリーフのプロセスを経て、私たちはどのようにしてウェルビーイングを取り戻していくのでしょうか。かつては、グリーフワークとは故人への愛着を断ち切り、忘れることだと考えられていました。しかし、1990年代以降、「継続する絆(Continuing Bonds)」という新しい概念が注目されるようになります【資料D】。 これは、故人との関係性を終わらせるのではなく、死後もその絆を維持し、心の中で新しい形で関係性を再構築していくという考え方です。故人を思い出し、語り、その教えや価値観を自らの内に取り込んで生きていく。それは、物理的な不在を乗り越え、心理的なつながりの中に支えを見出す営みです。故人を忘れるのではなく、心の中の特別な場所に位置づけ、共に人生を歩んでいく。この視点の転換は、多くの遺族にとって大きな救いとなりました。
さらに、喪失という極めてつらい体験が、結果的に個人の精神的な成長や人生観の深化につながることがあることも知られています。これを「心的外傷後成長(Post-traumatic Growth, PTG)」と呼びます【資料E】。

これは、トラウマ体験を乗り越える過程で、「人との関係性が深まった」「人生のありがたみが分かるようになった」「自分自身の新たな強さに気づいた」といった、ポジティブな心理的変化が生まれる現象を指します。
もちろん、誰もが成長を経験するわけではなく、また喪失体験を肯定するものでもありません。しかし、深い苦悩の中から、新たな意味や感謝、そして人間的な成熟がもたらされる可能性があるという事実は、暗闇の中にいる人々にとって一条の光となり得るでしょう。
ウェルビーイングとは、苦しみをなくすことではなく、苦しみと共存し、そこから意味を汲み取りながら生きていく強さの中にこそ見出されるのかもしれません。
悲しみと共に歩む 新しいウェルビーイングの形
大切な人を失う悲しみは、決して完全になくなることはありません。グリーフケアとは、悲しみを消し去る魔法ではなく、その悲しみを抱えながらも、自分らしい人生を再構築していくための長く、そしてパーソナルな旅路です。そのプロセスは、一直線に進むものではなく、行きつ戻りつを繰り返す複雑なものです。

しかし、その過程で故人との新たな絆を見出し、自分自身の内なる強さに気づき、他者との繋がりの尊さを再認識することができたとき、私たちは以前とは違う、より深く、成熟した形のウェルビーイングに辿り着くことができるのではないでしょうか。個人が悲しみを安心して表現でき、社会がそれを温かく見守り、支える。そのような文化を育むことが、予測不可能な時代を生きる私たち一人ひとりにとって、真のセーフティネットとなるはずです。
心と体のバランスを整えてウェルビーイングな毎日を。
参考文献
【資料A】 Klass, D. (2023). Continuing Bonds in the Existential, Phenomenological, and Cultural Study of Grief: Prolegomena. OMEGA - Journal of Death and Dying, 0(0).
【資料B】 Worden, J. W. (2018). Grief Counseling and Grief Therapy: A Handbook for the Mental Health Practitioner (5th ed.). Springer Publishing Company.
【資料C】 厚生労働省. 「こころの耳:家族を亡くした方へ」
【資料D】 Klass, D., Silverman, P. R., & Nickman, S. L. (Eds.). (1996). Continuing bonds: New understandings of grief. Taylor & Francis.
【資料E】 Tedeschi, R. G., & Calhoun, L. G. (2004). "Posttraumatic Growth: Conceptual Foundations and Empirical Evidence". Psychological Inquiry, 15(1), 1-18.
プロフィール
西村太志(にしむら たいし)
兵庫県出身、東京都国立市在住。一橋大学大学院で社会学を研究中。
ウェルビーイング、つながりの再構築、主観と客観のあいだを探る思想に関心がある。
趣味は読書、映画、音楽(高校時代まで吹奏楽部)。