ファイナンシャル・ウェルビーイング “お金の安心”が心と社会を支える
- 西村太志
- 7月6日
- 読了時間: 7分
現代社会を生きる私たちは、キャリア、健康、人間関係といった様々な要素の中で、自分らしい幸福、すなわち「ウェルビーイング」を追求しています。身体的な健康(フィジカル・ウェルビーイング)や精神的な充足(メンタル・ウェルビーイング)の重要性は広く認識されるようになりましたが、それらの土台として、しばしば見過ごされがちながらも極めて重要な要素が存在します。

それが「ファイナンシャル・ウェルビーイング」です。これは単に資産を多く持つことや、高収入であることと同義ではありません。むしろ、自らの経済状況を主体的に管理し、将来に対して漠然とした不安ではなく、確かな見通しと安心感を得られている状態を指します。
本稿では、この「お金の安心感」が、いかに私たちの心と身体、ひいては社会全体の健全性に深く関わっているのかを、具体的な根拠と共に探求していきます。
ファイナンシャル・ウェルビーイングとは何か
単なる「裕福さ」ではない、主観的な安心感
ファイナンシャル・ウェルビーイングという言葉を聞いて、多くの人が想像するのは、潤沢な貯蓄や高い年収といった客観的な経済指標かもしれません。しかし、その本質は、より主観的な心の状態にあります。
米国の消費者金融保護局(CFPB)は、ファイナンシャル・ウェルビーイングを「現在および将来の経済的な義務を十分に果たせ、経済的な選択の自由を感じられ、人生の目標を達成するためにお金を活用できる状態」と定義しています【資料A】。

ここでの核心は、「選択の自由」や「目標達成」といった、個人の価値観と深く結びついた感覚です。いくら客観的な資産が多くても、絶えずお金のことで頭を悩ませ、将来への不安に苛まれているのであれば、その人はファイナンシャル・ウェルビーイングが高いとは言えません。 逆に、収入や資産は平均的でも、収支のバランスが取れ、将来への備えを着実に進められているという手応えがあれば、そこには確かな安心感が生まれるのです。
不安の正体 客観的指標と主観的感覚のギャップ
都市部で生活するビジネスパーソンの中には、相応の収入を得ていながらも、将来に対する経済的な不安を拭えないと感じる方が少なくありません。その背景には、老後の生活資金、子どもの教育費、予期せぬ病気や失業への備えなど、考え始めると切りがないほどの不確定要素が存在します。
金融広報中央委員会が実施した調査によると、金融資産を保有している世帯であっても、老後の生活について「非常に心配である」「多少心配である」と回答する割合は極めて高い水準にあります【資料B】。

これは、客観的な資産額と主観的な安心感が必ずしも比例しないことを示す好例と言えるでしょう。情報化社会の中で、私たちは様々な金融商品や投資の情報を目にしますが、それらが逆に「自分はまだ足りないのではないか」という焦りや不安を煽る一因となっている側面も否定できません。
問題の根源は、しばしばお金の絶対額そのものではなく、お金との向き合い方、すなわち自らの経済状況を制御できているという「コントロール感」の欠如にあるのです。
“お金の不安”が心身に与える深刻な影響
ストレスホルモンと意思決定能力の低下
経済的な不安は、単なる気分の問題にとどまらず、私たちの心身に具体的な影響を及ぼします。経済的なプレッシャー、すなわち「金銭的ストレス」は、コルチゾールといったストレスホルモンの分泌を促し、これが慢性化すると、高血圧や免疫機能の低下、さらにはうつ病などの精神疾患のリスクを高めることが知られています。

さらに、ハーバード大学のムライナサン教授らの研究によれば、人間は時間やお金といった資源が欠乏した状態に陥ると、目先の課題に集中するあまり、認知能力や長期的な視点での判断力が著しく低下することが示されています【資料C】。
つまり、お金の不安は、私たちから冷静な判断力を奪い、衝動的な消費や不適切な投資判断といった、さらなる経済的困窮を招きかねない悪循環を生み出す危険性をはらんでいるのです。
人間関係と社会参加への足かせ
ファイナンシャル・ウェルビーイングの欠如は、個人の内面だけでなく、他者との関わり、すなわち「ソーシャル・ウェルビーイング」にも影を落とします。
経済的な余裕のなさは、友人との会食や趣味の集まりへの参加をためらわせ、徐々に社会的なネットワークから孤立させていく可能性があります。ノーベル経済学賞受賞者であるダニエル・カーネマン教授の研究では、年収がある一定の水準に達するまでは、収入の増加に伴って「感情的幸福」も向上することが示されています【資料D】。

これは、収入が増えることで、病気や離婚といった人生の困難に対処しやすくなるためだと考察されています。裏を返せば、経済的な基盤の脆弱さは、逆境への耐性を弱め、社会的なつながりを維持する上での障壁となり得るのです。
お金の不安が、人生の豊かさの源泉であるはずの人間関係や社会参加の機会を奪ってしまうとすれば、それは個人にとっても社会にとっても大きな損失と言わざるを得ません。
ファイナンシャル・ウェルビーイングを高めるための思考法
「見える化」から始める自己との対話
では、どうすれば私たちは「お金の安心感」を手に入れることができるのでしょうか。その第一歩は、特定の金融商品を検討する前に、まず自分自身の経済状況を客観的に「見える化」することです。
毎月の収入と支出、保有している資産、そして抱えている負債を正確に把握することから始めます。これは、感情的な不安を、具体的な数字に基づいた客観的な課題へと転換させるための不可欠なプロセスです。家計簿アプリやスプレッドシートを活用するのも良いでしょう。

この作業は、単なる数字の確認作業ではありません。何に喜びを感じ、何に無駄を感じているのか、自分のお金の使い方の癖を通して、自らの価値観と向き合う「自己対話」の機会でもあるのです。
「価値観」に基づくお金の使い方への転換
経済状況を把握した次に考えるべきは、お金の使い方です。私たちは、限られた資源であるお金を、どのように配分すれば最も幸福度が高まるのでしょうか。
近年の研究では、物質的な「モノ消費」よりも、旅行や学習、交流といった「コト消費(経験)」にお金を使う方が、持続的な幸福感につながりやすいことが分かってきています。さらに、ブリティッシュ・コロンビア大学のエリザベス・ダン准教授らの研究では、自分自身のためにお金を使うよりも、他者のために(例えばプレゼントや寄付など)お金を使う方が、幸福度が高まるという興味深い結果が示されています【資料E】。

これは、お金を他者とのつながりを深めるためのツールとして用いることが、私たちの本源的な社会的欲求を満たすからだと考えられます。自らの価値観に照らし合わせ、何が自分にとって真の豊かさをもたらすのかを問い直し、お金の使い方を意識的に選択していくことが重要です。
経済的自立から、精神的・社会的充足へ
ファイナンシャル・ウェルビーイングとは、単にお金を貯め込むことや、節約を極めることではありません。それは、お金との健全な関係を築き、お金に振り回されることなく、自分らしい人生を主体的に選択できる力を手に入れることです。
経済的な安心感という土台の上に立って初めて、私たちは心置きなく新しい挑戦をし、人とのつながりを育み、社会に貢献するといった、より高次のウェルビーイングを追求する余裕を得られるのです。お金の問題を直視することは、時に痛みを伴うかもしれません。

しかし、その先に広がる精神的・社会的な充足を目指し、まずは自らの経済状況と静かに向き合う時間を持つことから始めてみてはいかがでしょうか。
心と体のバランスを整えてウェルビーイングな毎日を
参考文献
【資料A】Consumer Financial Protection Bureau. (2017). Financial well-being in America.
【資料B】金融広報中央委員会. (2023). 「家計の金融行動に関する世論調査」[二人以上世帯調査](令和5年).
【資料C】Mullainathan, S., & Shafir, E. (2013). Scarcity: Why Having Too Little Means So Much. Times Books.
【資料D】Kahneman, D., & Deaton, A. (2010). High income improves evaluation of life but not emotional well-being. Proceedings of the National Academy of Sciences, 107(38), 16489-16493.
【資料E】Dunn, E. W., Aknin, L. B., & Norton, M. I. (2008). Spending money on others promotes happiness. Science, 319(5870), 1687-1688.
西村太志(にしむら・たいし)
兵庫県出身、東京都国立市在住。一橋大学大学院で社会学を研究中。
ウェルビーイング、つながりの再構築、主観と客観のあいだを探る思想に関心がある。
趣味は読書、映画、音楽(高校時代まで吹奏楽部)。