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物語が人を癒やす 映画とウェルビーイングの心理学

  • 執筆者の写真: 西村太志
    西村太志
  • 11月1日
  • 読了時間: 7分

多忙な日々の中で、ふと心が疲れていると感じることはないでしょうか。

仕事のプレッシャー、複雑な人間関係、先行きの見えない社会情勢。現代を生きる私たちは、意識的に心身をケアしなければ、いつの間にかすり減ってしまいます。そのケアの方法として、近年「ウェルビーイング」という概念が注目されています。

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これは、身体的、精神的、そして社会的に良好な状態にあることを指す言葉です。本稿では、数あるウェルビーイング向上のアプローチの中でも、特に「物語」、とりわけ「映画」が私たちの心に与える癒やしの効果について、心理学的な知見を交えながら探求していきたいと思います。



なぜ物語は私たちの心を動かすのか


私たちはなぜ、スクリーンの中に広がる架空の世界に心を奪われ、時に涙し、時に生きる勇気をもらうのでしょうか。その根源には、物語が持つ普遍的な力が存在します。それは単なる気晴らしや娯楽にとどまらない、人間の精神に深く作用するメカニズムなのです。


感情移入とカタルシス


物語が持つ最も根源的な力の一つに、感情移入を通じて「カタルシス」をもたらす効果が挙げられます。カタルシスとは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスがその著書『詩学』の中で悲劇論の核として論じた概念で、「浄化」を意味します。


物語の登場人物が直面する苦悩や葛藤に深く感情移入し、彼らと共に恐怖や憐れみといった感情を追体験することで、心の中に溜まっていた澱(おり)のような感情が解放され、精神が浄化されるという考え方です。


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例えば、主人公が理不尽な困難に立ち向かい、傷つきながらも希望を失わない姿を見る時、私たちは自身の内に秘めた悲しみや怒りをその姿に投影します。そして物語がクライマックスを迎え、主人公が救済されたり、一つの答えを見つけたりする時、あたかも自分の問題が解決されたかのような解放感を味わうのです。


この一連の心の動きは、現実世界で直接感情を爆発させることなく、安全な形でストレスや抑圧された感情を処理する機会を私たちに与えてくれます。現代心理学においても、感情の表現や処理の重要性は広く認識されており、物語を通じたカタルシス体験は、精神的なデトックスとして有効に機能すると考えられています。【資料A】


鏡としての物語 自己理解の深化


物語はまた、私たち自身を映し出す「鏡」としての役割も果たします。映画の登場人物が下す決断や、彼らが抱える人間的な弱さに、私たちは自分自身の姿を重ね合わせます。普段は意識の底に沈めている自らの願望や恐れ、あるいは解決できずにいる課題が、物語というフィルターを通して客観的に浮かび上がってくるのです。


このプロセスは、自己理解を深める上で極めて重要です。なぜ自分はこの登場人物のこの言葉に心を動かされたのか、なぜあのシーンで不快感を覚えたのか。そう自問することで、自分でも気づかなかった価値観や、無意識のうちに避けていた感情と向き合うきっかけが得られます。他者の物語に触れるという行為は、結果的に自分自身の物語を読み解くことにつながるのです。


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このように、物語を介して自己の経験を意味づけ、統合していくプロセスは、心理学における「ナラティブ・アプローチ」にも通じるものであり、自己肯定感や人生の満足度を高める上で大きな役割を果たします。



映画がもたらすウェルビーイングへの具体的な効果


物語の持つ普遍的な力は、特に映画という総合芸術の形で私たちのウェルビーイングに多角的な効果をもたらします。映像、音楽、そして練り上げられた脚本が一体となり、私たちの心に深く働きかけるのです。


疑似体験によるレジリエンスの向上


映画は、私たちが現実では決して経験することのない多様な人生を疑似体験させてくれます。それは、困難な状況から立ち直る力、すなわち「レジリエンス」を育む上で、貴重な訓練となり得ます。


例えば、逆境の中で人間関係を再構築していく物語や、大きな失敗から学びを得て再起する主人公の姿は、私たちに「自分も乗り越えられるかもしれない」という希望を与えます。

心理学の研究では、困難な状況を乗り越えるモデルを観察することが、観察者のストレス対処能力を高める可能性が示唆されています。【資料B】


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映画を通じて、登場人物がどのように危機を乗り切り、精神的な成長を遂げるかを追体験することは、現実世界で困難に直面した際の思考の選択肢を増やし、精神的な柔軟性を養うことにつながるのです。これは、いわば「心の防災訓練」のようなものと言えるかもしれません。


「ナラティブ・アイデンティティ」の形成と再構築


人間は「自分とは何者か」という問いに対して、自らの人生を一つの物語として語ることで自己認識を形成していく、と考える心理学の理論があります。これを「ナラティブ・アイデンティティ」と呼びます。【資料C】 過去の経験、現在の自分、そして未来への展望を、一貫性のある物語として紡ぎ出すことで、私たちは自己のアイデンティティを確立し、人生に意味を見出します。


映画は、この自己の物語をより豊かに、そしてより多角的にする上で大きな助けとなります。多様な登場人物の生き様や価値観に触れることで、私たちは「こんな生き方もあるのか」「自分の悩みは、別の角度から見れば違った意味を持つのかもしれない」といった新たな視点を得ることができます。


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それは、凝り固まった自己の物語を一度解きほぐし、よりしなやかで肯定的な物語へと再構築するきっかけを与えてくれるのです。人生に行き詰まりを感じた時、一本の映画が新たな章を始めるためのインスピレーションを与えてくれることは少なくありません。


共感を科学する 物語と脳の不思議な関係


物語が人の心を動かす力は、脳科学の分野からも裏付けられつつあります。米国の神経経済学者ポール・ザック氏の研究によれば、感動的な物語に触れた人の脳内では、「オキシトシン」という神経伝達物質が分泌されることが分かっています。【資料D】

オキシトシンは、人との信頼関係や愛着形成に深く関わることから「愛情ホルモン」とも呼ばれ、共感性や向社会的な行動を高める効果があるとされています。


映画の登場人物に強く感情移入している時、私たちの脳は、まるでその出来事が自分自身の身に起きているかのように反応します。この脳内の働きが、他者への共感能力を高め、ひいては社会的なつながりの感覚を育むことにも寄与するのです。


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孤独感が心身の健康に悪影響を及ぼすことが指摘される現代において【資料E】、物語を通じて他者とのつながりを疑似的にでも体験することは、精神的な安定とウェルビーイングの維持にとって、非常に価値のあることだと言えるでしょう。



日常に物語を取り入れ、人生を豊かにする


映画をウェルビーイング向上のためのツールとして活用するために、特別な準備は必要ありません。大切なのは、単なる暇つぶしや娯楽として消費するのではなく、少しだけ意識的な姿勢で向き合ってみることです。


鑑賞後、どの登場人物に共感したか、どのシーンが心に残ったか、そしてそれはなぜかを少しだけ振り返る時間を持ってみてはいかがでしょうか。その小さな対話の積み重ねが、自分自身への理解を深め、日々の生活をより豊かなものにしてくれるはずです。


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物語の力を意識的に取り入れることで、私たちは心の栄養を補給し、より良く生きるための知恵と勇気を得ることができるのです。


心と体のバランスを整えてウェルビーイングな毎日を


参考文献

【資料A】日本心理学会. 「感情心理学

【資料C】サトウ タツヤ. 「ナラティブの意義と可能性」. 言語文化教育研究, 16, 2018.

【資料E】Tough, H., et al. “Loneliness and health”. The Royal College of General Practitioners, 2017.

西村太志(にしむら・たいし)

兵庫県出身、東京都国立市在住。一橋大学大学院で社会学を研究中。

ウェルビーイング、つながりの再構築、主観と客観のあいだを探る思想に関心がある。

趣味は読書、映画、音楽(高校時代まで吹奏楽部)。

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